自然栽培とは?

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自然栽培とはどのような栽培なのか、有機栽培とどこが違うのか?

こうした疑問をお持ちの方も少なくないと思います。自然栽培とは、化学肥料はもちろんのこと厩堆肥(人糞・牛糞・豚糞・鶏糞・馬糞・魚粉・油かす・ぬかなど)および農薬などを一切使用せず、自然の摂理に則った栽培法であるといえます。

また、「自然栽培」「自然農法」でいうところの「自然」とは?普段なにげなく使っている「自然」という言葉について自然栽培の視点からお伝えします。

一般的には山など自然のありのままの風景を畑に再現することが自然農法だと捉えられているケースも多いです。畑や田んぼを自然界のようにすることが「自然」という価値観ですね。

確かに、自然界は、耕すこともなければ、草を抜くこともない、多種多様な生物がまさに自然に存在している姿であり、それゆえに、不耕起、無除草という農業のあり方になるのも頷けます。

これらも肥料を使用しないという観点からすれば自然農法のひとつかも知れませんが、「自然栽培」とは異なります。自然栽培は、農地に自然界を再現するのではなく、自然の法則・摂理を農業に活用することなのです。まずこの点をおさえておいていただきたいのです。。

農地というのは、人間が食べ物を生産する目的で人為的につくられた場です。その時点で不自然な場といえます。不自然な場において自然界を再現しようとすると大きな狂いが生じてしまう。現代農業が抱える問題の一端は、この自然の捉え方の誤りによるものと言えるかもしれません。私たちは30年以上にわたり自然栽培の普及にあたってきましたが、不耕起栽培や無除草栽培、そして有機栽培、さらに言えば慣行栽培も否定しているわけではありません。それらすべては、その時代に必要な方法論だったと言えます。農薬はないにこしたことはないのですが、今すべての農薬がなくなれば人類は食べ物を失い飢餓に陥ってしまいます。

耕さず、草を抜かずに栽培することも良いと思います。ただし、70億人の人間が生存していくことはできません。農業とは、食料を生産することという大前提をもとに、自然の法則を冒すことなく、秩序をもって農業をすべきであるというのが私たちの意見であり、本来の自然農法であり自然栽培であると考えています。

自然栽培の成り立ち

自然栽培。この農法が提唱されたのは昭和の初期になります。提唱者は、岡田茂吉さんという宗教家でした。インターネットで「ナチュラル・ハーモニー」を検索すると「宗教」という言葉が出てくるのはこうした背景があります。農業ではありませんが、最近よく耳にするマクロビオティックという食事療法の概念も元をたどると宇宙観に基づいた思想に行き着きます。自然栽培にしても、マクロビオティックにしても、物理的理論や化学的根拠よりも感性や感覚、つまり自然観から生み出されたもので超自然科学の分野といえるかもしれませんね。

 

いつのころからか日本人は宗教や信仰といったものと距離を置くようになってしまいました。でも、大自然の法則を体系化していったものが宗教であり、具体的農法に落とし込んだのが自然栽培と私たちは捉えています。理論・根拠、または現代農業の常識といったものを一旦横に置き、起きている事実を前提に自然栽培とはいかなるものなのかを探求していただきたいと思います。ぜひご自身の感性をもって自然栽培の世界に触れていただければ幸いです。

理屈は後、実践あるのみ

自然栽培の普及に携わってきたこの間、「宗教だ」「オカルトだ」「胡散臭い」と言われ続けてきたことも事実です。肥料も農薬も使用せずに栽培できるという今の農学では到底ありえないことを主張し、実践しているのだから無理もありません。しかし、ここ数年で状況は大きく変わってきています。以前では考えられないことですが、国立大学の農学部や農水省から声がかかるようになってきました。こうした機関が興味を示すということは、自然栽培の実践者が増え、成功事例が多々見受けられるようになってきた表れと理解しています。そして事実として存在することが「オカルト」ではないことを証明してくれています。

とはいえ、理論よりも実践の成果で語る我々への批判や反論がまったくなくなったわけではありません。特に、農学者、肥料学者とのディスカッションは常に平行線をたどります。彼ら曰くの「不可思議な実態」は、今後解明されていくと思われます。一方で、自然栽培側にも理解を難しくする要因がないわけではないのです。その一例が「肥毒」という言葉です。自然栽培そのものが宗教家から出たことはすでにお伝えしましたが、それゆえ耳慣れない言葉も多い。肥毒については、自然栽培を理解・実践する上で大変重要な事柄であるので、別に詳しく記してますが、いずれにせよ、今後、学者や研究者にも理解しうる表現を模索していく必要はあると感じています。

自然栽培の原理

2011年11月11日、自然栽培の普及を目的に「自然栽培全国普及会」を設立しました。会長は、自然栽培歴30年以上という全国でも先駆者的存在の高橋博氏(千葉県富里市)、事務局をナチュラル・ハーモニーが担うことになりました。会は畑作部門、稲作部門、果樹部門からなり、設立時の会報に、私たちはあえて岡田茂吉氏の論文の一部を引用し掲載させていただきました。宗教的というイメージを持たれることも承知の上でした。自然栽培を広めていくという目的がある以上、創始者が提唱していたことをすべての会員が知っておく必要があると思ったからです。以下、その内容をご紹介します。

そもそも自然農法(注1)の原理とは、土の偉力を発揮させることである。それは今日までの人間はその本質を知らなかった。―中略― その概念が肥料を使用することとなり、いつしか肥料に頼らなければならないようになってしまった。なるほど、肥料をやれば一度は相当の効果はあるが、長く続けるに漸次逆作用が起こる。すなわち作物は土の養分を吸うべき本来の性能が衰え、いつしか肥料を栄養としなければならないように変質してしまうのである(肥料の逆効果より引用)まったく一種の迷信化したのである ―中略― そうして、人肥金肥は一切使用せず、堆肥のみの栽培であるから、その名のごとく自然農耕法というのである。
もちろん堆肥の原料である枯葉も枯草も自然にできるものであるからであって、これに引き替え人肥金肥はもとより、馬糞も鶏糞も魚粕も木灰など、天から降ったものでも地から湧いたものでもなく、人間が運んだもの(注2)である以上、反自然であることは言うまでもない。そもそも森羅万象、いかなるものといえども大自然の恩恵に浴さぬものはない。即ち火水土の三原素によって生成化育するのである。三原素とは科学的にいえば、火の酸素、水の水素、土の窒素であって、如何なる農作物と雖も、この三原素に外れるものはない。-中略- 以上のような、大自然の法則を無視した人間は人為的肥料を唯一のものとして今日に到ったのであるから、食糧不足に悩むのは寧ろ当然と言うべきである。―中略― 曩に述べた如く、火水土の三原素が農作物を生育させる原動力としたら、日当たりをよくし、水を充分供給し、浄土に栽培するとすれば、今までにない大きな成果を挙げ得る事は確かである。いつの日かは知らないが、人間はとんでもない間違いをしでかしてしまった。それが化学肥料の使用である。全く土というものの本質を知らなかったのである。

昭和28年『自然農法解説』より-注1 のちに名称が自然栽培となる 注2 肥料分として人為的に運ぶことを意図している 注3 温かい、水はけよく水もちのよい条件を整えることをいとしている

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このとおり「火水土の三原素」など宗教家らしい表現がみられますが、つまりは大自然をよくよく観察すればそこに人為的に何がしかが持ち込まれることはなく、それでも木々や草々は命を繋げてきているという姿から学べ、ということです。また、堆肥ということばが出てきますが、これは現在の動物性肥料のようなものを指しているのではなく、作物の残渣が腐植したものです。

では、どのような仕組みで植物は生命を維持しているのでしょうか?岡田茂吉氏は、それらを「火水土」と表現しています。火は、太陽からもたらされる何か、水は月からもたらされる何か、土は地球からもたらされる何かということです。何かとは、いまの科学では解明できていない超極微粒子なのかもしれません。いずれにせよ、いま私たちが目にする大自然の永続した営みは事実です。この営みの法則を、農地という場で再現しようというのが岡田茂吉氏の提唱した自然栽培ということです。

当時はすでに「作物は肥料で育つ」ということが常識であったと思いますので、岡田氏の論は嘲笑されたことでしょう。宗教家の戯言と言われたかもしれません。そんな中、主に信者ではあったと思いますが、少数派の人々が岡田理論を信じ、自然栽培を信じて今日まで繋げてきたというのが自然栽培の歴史といえます。

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